聖し夜の・・・ (後編)

 

 

 

 その人の名前は久保 栞。
 『いばらの森』はカホリとセイだったから、やっぱりちょっとでき過ぎだよね、とお姉さまは微笑った。
「もっとも、私は振られてしまったわけだけれど」
 でも、あの時はそうするしかなかったのだと、今なら思えるとおっしゃる。
 逃げたあげく、心中だなんて洒落にならない、と。
「でも、薄々思っていたとはいえ、小説って形ではっきりとモデルケースを見せつけられると、やっぱりこたえたな」
 お姉さまは頬杖をつき、どこか遠くを見るように視線をさまよわせる。
「カホリはともかく、セイは本当にあの頃の私と似ていたからね」
 とても他人ごととは思えなかったそうだ。

 ――今の時期、陽が落ちるのは早い。
 室内はすっかり暗くなっていたけれど、電気をつけるために立ち上がる気にはなれなかった。

「でもね」
 ふいに、お姉さまの表情が変わる。
「ほんと、いつものことだけど、祐巳ちゃんがやってくれたのよ」


 文庫を読む間、お姉さまはたまたま持っていた食券を渡して、祐巳さんたちを麺食堂へ送り出されたそうだ。冒頭部分を読んで、これは流し読めそうにないと判断したのと、
「だって、読むのを見守られるのもねぇ。なんだか落ち着かないじゃない?」
 ということだったが、本当は読んでもし動揺したら……その姿を見られたくなかったからではないだろうか。

「せっかくだから、帰りに缶コーヒーを買ってきてって頼んだの。もちろんお駄賃として二人にも飲み物を買っていいからねって言ったわ」
 思い出したのか、お姉さまの口から、くっと笑いがこぼれた。
「由乃ちゃんはカフェオレ。……さて。じゃあ祐巳ちゃんはいったい何を買ってきたでしょう?」
 いつの間にかクイズになっている。
 私はちょっと考えた。
「……ココア、ですか?」
「ブブーッ! はっずれー」
 いいとこ突いてるんだけどね、と前置きして、
「答えはね」
 お姉さまは内緒話をするみたいに顔を近づけて来られた。

「なんと缶入りしるこ!」
「ああ」
 確かに、祐巳さんなら好きそうだ。
「……なんだ。志摩子、缶入りしるこ知っていたんだ?」
「ええ」
 ――買ったことはないけれど。
 知っていたとはつまらない、とお姉さまは肩をすくめる。けれどすぐに笑みを浮かべ、
「まぁとにかく。私は知らなかったから、ものすごくウケちゃったわけ」
 その時のことをふたたび話し始める。

 お姉さまは缶入りしるこがツボに入ってしまい、どうにも笑いが止まらなかったらしい。
「あんまり面白いから、ぜひ味見したくなって分けてもらった」
 祐巳さんはいかにも渋々といった感じだったらしいけれど。それで、よけいに飲んでみたくなったそうだ。
 ――祐巳さんもお気の毒に。
「それで、美味しかったですか?」
 そこまでして試した飲み物は、はたしてどんな味がしたものだろうか。
 お姉さまはなぜか真顔になる。
「すっごく、甘かった」
 あれは飲み物じゃなくておやつだね、と続けたあと、
「だけどさ。自販機なんて何回も利用しているのに、あんな面白いものがあったなんて全然気づかなかったよ」
 感心したようにおっしゃる。
 それは、お姉さまがコーヒーのブラックしか飲まないから、わざわざ他のものを見ないからだろう。そう思ったのだけれど、ご本人の見解は少し違った。

「私って何でもそうなんだよね。視野が狭いっていうか……周りが見えていない」
 缶入りしるこから、まさかいきなりそんな話題に飛ぶとは思わなかったから、思わず怯む。
「だからね」
 どくん、と心臓が大きな音を発てた。
(……やめて)
 ――ふいうちなんて、あんまりだ。
(聞きたくない!)
 ここまで来ても。お姉さまの闇を受け止める自信なんか、とてもなかった。
 思わず目を瞑り、両手で耳を覆いそうになる。

 だけど、お姉さまの言葉は、予想とはまるで違ったものだった。
「進学、しようと思って」
「……え?」
 うつむきがちにコーヒーカップの縁を見つめていらしたお姉さまは、私の動揺に気づかなかったようだ。
「なんだかね。今まで、いろんなものを見過ごしてきたんじゃないかと思ってね。 私は自分で学校ってところには馴染めないって決めつけてきたけれど……本当はそんなことなくて。ちゃんと向き合えば、けっこう楽しいものなのかもしれないって思えたから」
 そうおっしゃった表情は穏やかで。

「それは……祐巳さんのおかげですか?」

 福沢祐巳というクラスメイトが山百合会に仲間入りしてからのお姉さまの変化は、周囲が驚くほど劇的だった。大口を開けて笑ったり、心から楽しそうに後輩をからかってみたり。
 そんな姿が見られるようになったのは、本当につい最近のことなのだ。
 
「もちろん祐巳ちゃんは大きなきっかけだけど」
 それだけじゃない、とお姉さまはかぶりを振る。
「江利子や蓉子や、お姉さま……山百合会の皆。ここに、確かに私の居場所があったんだって、気づいたから」
 ――その気持ちは、とてもよくわかった。
 私自身もまた、別の感慨と共にいつも思うことだったから。

 そして次のひと言に、三度衝撃を受ける。
「それと志摩子、あなたの存在もね」
「私?」
 あまりに意外すぎて、思考がついていかない。
「お姉さまっていう立場になって、初めて見えたものも、すごくたくさんあるよ」
 お姉さまはありがとう、と言って、優しく微笑んだ。

(ああ!)

 それが本当だとしたら。
 二人の出逢いが、私にとってだけではなく、お姉さまにとっても、心慰められるものであったというなら。
 少なくとも、今ここに自分が存在していてよかったのだと、そう思えた。いつも感じる、ここにいてはいけないんじゃないかと……他の皆とは違うのだという思いが、完全に消えるわけではなかったけれど。
 心の中に、そっと暖かいものが満ちる。
 自然と、笑みが浮かんだ。


 ――すると。お姉さまはふいに髪をかき上げ、またも唐突に言う。
「さて。じゃあそろそろ帰ろうか」
「あ、本当。早く出ないと」
 私も少しあわてた。
 窓から射し込む光は、もうすっかり月明かりで。警備員さんがいつ見回りに来てもおかしくない頃合だった。
 急いで洗い物を済ませ、ストーブを消してコンセントを抜く。

「忘れ物はないね。じゃあ、行くよ」
「はい」
 珍しくお姉さまが差し出した手を、私もまた躊躇なく握り返す。

 ――この人と一緒に過ごせるのはあと三ヶ月足らず。
 それでも。お姉さまが卒業する日まで、ずっとこの手を離さずにいようと思った。


 そして。
 季節がめぐり、春になって、私ははひとりの少女と出遇う。


(お姉さまっていう立場になって、初めて見えたものもたくさんある)
 ――本当にそのとおりだ。
 隣を歩く妹を見遣って、私はそっと微笑んだ。


fin〜


2004/12/04 UP

    

     

 

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