――これも、いつかの問いかけと同じ。
『私のペットになる?』
祐巳を助けた聖さまは、かつてゴロンタにしたように、祐巳にも尋ねたのだ。
だから祐巳も、あの時と同じように答えなくちゃいけない。そう思うのに、声は喉にからまって、うまく出て来なかった。
聖さまが、あの時みたいに冗談まじりな感じじゃなかったから。……怖いくらい、真剣な表情。
抱きつかれても、ほっぺにキスされても、こんなふうにドキドキしたことなんてないのに。心臓が、うるさいくらい早鐘を打ち始める。
ああそうだ。こんな聖さまを、一度だけ見たことがあった。
『いばらの森』の騒動があった時。栞さんの話をしてくれた聖さまは、いつもより気だるげで、なんだか寂しげで。まるで、知らない人みたいに見えた。
でもきっとそれこそが、この方の本来の姿に近いんじゃないかと、あの時思ったのだ。
「祐巳ちゃん?」
魅入られたように動けないでいる祐巳の頬に、そっと聖さまの手が触れる。
(うわっ! ど、どうしよう。どうすればいいの、この状況!)
ゆっくりと近づいてくる聖さまのお顔は、見れば見るほど綺麗で。
(……って、これ以上接近したらまずいって!!)
祐巳はパニック寸前で、なんとか声を絞り出した。
「あ、あああのっ、ちょっ……」
(あ、ダメだ)
焦りのあまりパクパクと口を動かすばかりで、まともな言葉が出て来やしない。
しかも。無意識に逃げを打った体は、シートベルトでがっちり固定されていて。普段ならこんなもの外すくらいあっという間なのに。
祐巳がひとりであたふたしている間に、聖さまとの距離は、もうお互いの吐息が触れ合うほど近くまで縮まってしまっていた。
(あー、もうだめ!)
助けてマリア様、お姉さま! なんて、祈る余裕すらなく。祐巳はぎゅっと目を瞑った。
とたん、くっ、という声がする。
(……く?)
おまけに、聖さまのお顔が間近に迫っていたはずなのに、予想したような感触はいつまで経っても訪れなかった。それどころか、ふたたび、くくくっと、押し殺したような響き。
(まさか)
おそるおそる瞼を持ち上げると、はたして片手で口元を覆った聖さまと、バッチリ目が合った。
「あっはっは!」
こらえきれないというように爆笑する聖さま。
祐巳は何がなんだかわからなくて、ぽかんとする。
(え? えええっ?)
「祐巳ちゃん最高!」
(は?)
聖さまはお腹を抱えて笑い続けている。
「いや、久々に見たよ。こっ、ここまで盛大な百面相!」
――って、なんか、涙まで流して笑っているんですけど、この人。
(こ、これってば……)
そこでやっと、祐巳も事態を把握した。
「聖さま!!」
やられた。祐巳はまんまといっぱい食わされて、聖さまの掌の上で踊らされてしまったのだ。
(信じられないったら、信じられない! この人ってば本っ当に、信じられないっ!!)
からかうにしたって、あれは反則だろう。祐巳はもうすっごくドキドキして、どうしていいかわからなくて、いっぱいっぱいだったのに。
……あんなに動揺したりして、馬鹿みたいだ。
「何考えているんですかっ!」
祐巳が怒鳴りつけると、ようやく聖さまは、何とか笑いを収めた。
「あー、ごめんごめん。だって祐巳ちゃん、どんどん落ち込んじゃって、ちょっとやそっとじゃ浮上しそうになかったからさ」
「だからって、あんなの、洒落になりません!」
「いや、ショック療法って言うかね。ほら、実際元気出たじゃない」
まだおかしそうに、聖さまはいい加減なことを言う。
「これはっ、怒っているんです!!」
「なに、ひょっとしてチューしてほしかった?」
「そんなわけないでしょう!」
キッと睨みつけても、聖さまは涼しい顔で、
「えー、卒業の時は、祐巳ちゃんの方からあーんな熱烈なお餞別くれたじゃない」
なんてニヤニヤしてる。
そして祐巳は、あっけなくその手に引っかかってしまうわけで。ボッと赤くなった祐巳を見て、聖さまはますます笑い転げた。
(ううっ、どうしてくれよう?)
恥ずかしさと怒りで、気持ちはめちゃくちゃなのに。
それでも、笑っている聖さまを見ていたら、なぜだかだんだん安堵感がこみ上げてくる。
すると、ハンドルに突っ伏すようにして笑っていた聖さまが、顔だけ上げてこう言った。
「元気出た?」
「……ちょっとだけ」
本当は、もうかなり浮上していたんだけど、悔しいからまだふてくされたふりをする。
「ちぇーっ、せっかくすごく気合入れて真面目な顔作ったのにな」
「そんなことに気合なんか使わないでください!」
もうっ、と言いながら、だけど祐巳は思わず笑みが浮かんでくるのを抑えられなかった。
聖さまは、いつもの聖さまで。
祐巳も、いつもの『祐巳ちゃん』で。
――やっぱり、聖さまとはこういうふうがいい、と思った。
「お。笑ったね」
そう言った聖さまは、やっぱり優しくて。
そろそろ行こうか、とシートベルトを締め直し、エンジンをかけながら聖さまが言う。
「祐巳ちゃんさ、祥子の別荘に行くんだったら、思いっきり楽しんでおいでよ。君達はスキンシップが足りないからね。そうやって二人の時間を積み重ねていくうちに、言いたいことも案外サラッと言えるようになるかもよ」
「はいっ」
……聖さまに話してよかった。
別に何かが解決したわけじゃないけど、祐巳の心は、確かに軽くなっていたから。
そして、お姉さまとはすばらしい夏のひと時を過ごすことになるのだが。
――祐巳がその問題と向き合えたのは、もっとずっと先のことだった。
fin〜
2005/01/16 UP
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